今日はいつもの趣向とは変わって犬HKの連続テレビ小説「あまちゃん」を取り上げる。

もともとこのメルマガは政治状況論を中心に、教育やメディア、文学、ITに至るまで幅広く取り上げる方針なので、ご了解願いたい。

多くのテレビドラマのなかで、「あまちゃん」を取り上げるのは、それだけの意味があるからだ。

世のなかは「あまちゃん」賛歌で溢れている。作品が面白い、という評価の一部にはわたしも賛成する。しかしこの作品には、笑ってばかりもおれないものを感じる。日本人は熱しやすく冷めやすい。東京オリンピック開催でもそうだが、その熱しているところに、人より早く警鐘を鳴らすと、猛烈な反発を招く。

これは困ったものだ。文学の世界で村上春樹、脱原発の世界で小出裕章などは、すでに批判がタブーの神々である。

いちど小出裕章の「汚染食品R指定(10禁~60禁)論」を批判したところ、ツイッター上で猛烈な「返信」の山に見舞われた。それで小出がすでに神になっていて、多くの信者は小出に関して思考停止に陥っていることをわたしは知った。

「返信」のなかには「デマを流して恥ずかしくないのですか」というお叱りもあって、小出の「汚染食品R指定(10禁~60禁)論」をご存じない信者もいたようだ。

小出裕章をわたしも好きである。評価もし、ブログでもかれの動画を取り上げている。

しかしわたしは信者ではないので、「ここは、お前さん、おかしいよ」というのだが、信者にとってはそれも許されないことらしい。

村上春樹にいたっては、信者は世界的に広がっている。新作が出れば「作品の内容抜きに、みんなが買うので、とりあえず」購入する、といった馬鹿げた現象を生んでいる。

あんなB層向けの、くだらない作品の何処がいいのか、と笑っている物書きは多いのだが、誰もが保身に走って本当のことをいわないのだ。

今年もノーベル賞は逃したが、これが7回目らしい。かれの場合は、少しでもまともな作家が対抗馬にいたらもらえない。かれが受賞するのは、世界中がよほど不作の年で、選者に目利きがいなくなったときだ。

ほんとうは、こんなくだらない賞、と受賞を拒否したらいいのだが、若いときに、そのために日本を逃げ出して米国に渡ったので、飛びつくだろう。

さて、本題の「あまちゃん」に入ろう。

「あまちゃん」は面白い。演出とカメラも素晴らしかった。

脚本の宮藤官九郎は才能がある。たまにナレーターに間違ったことを喋らせていたが(ナレーターが登場人物の未来を語るのは、視聴者の想像力を奪う、19世紀の古い手法である)、それを除けば実によく考えられた脚本だった。

これは方法的に面白い、と思ったことのひとつに、天野春子(小泉今日子)の若き日(有村架純)が、繰り返し登場し、回想だけではなく、作品の現在に重要な役割を演じたことだ。

また、「あまちゃん」には、1話のなかにもいくつもの伏線が張ってあり、それがかなりの鮮やかさだった。ただ、量的な観点からいうと、もう少し刈り込んだ方がいいかもしれない。いまはもう限界で、これ以上多用すると、イ・ビョンフン監督並のB層向けの説明になってしまう。

小説やドラマの主人公は、作品の展開を読まれないようにするために賢い人間であることが原則である。しかし、「あまちゃん」の主人公はバカでかわいい女の子だった。

したがって「あまちゃん」のあらすじはほとんど先を読めるものになっていた。あれも中途半端、これも中途半端。しかし、本人はそれを自覚することができずに先に進んでいく。それでも面白い。

この面白さの一斑の理由は、宮藤官九郎の会話の上手さにあるようだ。

それと宮藤官九郎自身がバカを描かせたら当代一流の脚本家であるということもある。舌を巻くほどうまい。

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ところで、世界にはたくさんの、物語(脚本)の作り方についての名著がある。クリストファー・ボグラーの『神話の法則』やジョゼフ・キャンベルの『千の顔を持つ英雄』、リンダ・シガーの『ハリウッド・リライティング・バイブル』。

実作に基づいたものでは、リンダ・シーガーの『アカデミー賞を獲る脚本術』、シド・フィールドの『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと~シド・フィールドの脚本術』、ウェンデル・ウェルマンの『映画ライターズ・ロードマップ』なども面白い。

それらの脚本術が共通して指摘するセオリー通りに、「あまちゃん」は、人の集まる<水飲み場>を2か所設定した。

ひとつは天野夏(通称「夏ばっぱ」)が経営する喫茶「リアス」(夜はスナック「梨明日」)、ふたつ目が梅頭(うめず)が経営する東京の寿司屋「無頼鮨(ぶらいずし)」である。

本来なら、この<水飲み場>に人は集まり、ここが人生の屠殺場となるのだが、宮藤官九郎は、そうしなかった。<水飲み場>はすべて幸せのたまり場になっている。これは「あまちゃん」を考えるときに、極めて象徴的な設定なのだ。

3.11前後の北三陸を舞台にしながら、ドラマには一片の暗さもない。不思議なことに3.11後に人が<水飲み場>に集まっても暗い話は何もない。

笑いだけで描く。こういう描き方でいいのだろうか、こういった北三陸の描き方は、亡くなった方々への、そして現在も仮設住宅で苦しむ方々への侮辱ではないのか、といった思いがいつも頭をよぎった。

「あまちゃん」の罪作りなことは、そのメディア的な成功によって、今後、3.11後の世界は、文学も映画もドラマも、「あまちゃん」を下敷きにする可能性が強いことだ。

つまり3.11を扱っているのに、原発や放射能汚染がない作品である。

このことは、『あまちゃん』の登場人物がすべて善人であって、敵役(悪役)が登場しなかったところにも象徴的に現れている。

この敵役というのはドラマ(小説)のなかで非常に重要な役割を持つのである。ある意味では主人公よりも魅力的で強大な敵役を作ったとき、その作品は成功するのだ。強大で魅力的な敵役の不在が、『あまちゃん』から深みを奪っている。

無理して探せばプロダクションの社長太巻(古田新太)ということになる。

しかし、太巻は小心者の小物で、主人公の母(小泉今日子)で十分にやっつけることが可能だった。

この敵役は憎めない敵役であって、魅力的な人物ではない。しかも作品の結末ではいい人になってしまう。

ところで演出の井上剛が、宮藤官九郎に脚本を頼むにあたって「朝ドラで東北の話をやりたかった」というモチーフが最初からあったのだという。逆にいうと宮藤官九郎の頭にはそれはなかったわけだ。

犬HKが朝ドラで東北を撮りたいといえば、そのモチーフはひとつしかない。「何も起きなかったんだよ。笑っておれば放射能など怖くない」という既得権益支配層の思想を、笑いのうちにドラマ化すること。

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