母を語る

1

太宰治のある作品に、悪戯をした幼年の太宰を、母親がそんな悪い子は閻魔さまにいいつけますよ、とかいって叱るくだりがある。

そのとき、幼年の太宰は、許してけんせぇ、と母に謝る。

太宰と芥川の作品は卒論にとった関係ですべて読んだが、さて、この文章はどこにあったか、すでに確かめる全集が手元にないので、はっきりしたことはわからない。微妙に文章のニュアンスは違っているかもしれない。

何しろわたしは30数年前の記憶をもとに書いているのだが、この、許してけんせぇ、という津軽弁は強い記憶に残っている。許してください、という意味だろう。

これを宮崎弁でいうと、許しちくんない、となる。

わたしの母が宮崎で亡くなったのは平成5年である。その5年前に父を亡くしているから、わたしにはもう親と呼べる人はいないわけだ。

亡くなったとき、母は93歳で、父は90歳だった。ふたりとも長生きしてくれたので、子供としては幸せだったのだろう。

誰でも母親を思い出すときに、蘇る幾つかの光景がある。

わたしの場合、きまって母が農家に食糧を買い出しに行き、背中に重い籠を背負って緩やかな坂道を登ってくる姿が蘇る。敗戦直後の食糧難の時代だった。

父は公務員で、わたしの一家は小高い丘の官舎に住んでいた。

村の人々は父を先生と呼んでいた。教師ではなかったのに、なぜそのように呼ばれていたのか。姉の説明によると、林業を重視した政府の国策もあり、この時代、営林署の役人は敬意を払われていたということである。

わたしは官舎の塀の上によじ登って、母の帰りを待っていた。

母の姿を見つけると、大急ぎで門の下の坂道を駈け降り、母が背負った籠を下から押し上げて登るのがいつものでんだった。

籠のなかには、米や麦の他、サツマイモや米、白菜、大根、そしてわたしが幼年時代を過ごした高岡のミカンなどが入っていた。

小柄な体躯でよく働く母。

辛くても弱音を吐かない母。

子供に愚痴をこぼさない母。

けっして父の悪口をいわない母。

畑仕事、裁縫、蒲団の打ち直し、洗濯(井戸のポンプから水を汲んではよく手伝ったが、それは母とふたりきりの楽しい時間だった)、障子貼り、掃除、おやつの準備、そして終戦後には大切だった農家への買い出し。

母は暇さえあれば何かをしていた。

疲れて倒れ込むときも、ただ黙って寝込んだ。とにかく愚痴をこぼさなかったし、子供に心配をかけるようなことは口にしなかった。そんな母に、兄弟のなかではわたしがもっとも可愛がられた。

すぐ上の姉は、

「お母さんは、あなたを正雄さんの生まれ変わりと思っている」

といっていた。

正雄兄は、わたしが生まれた翌年に長崎の三菱造船所に学徒動員で引かれ、原爆投下に遭って17歳で死んだ。仏壇の遺影でしか知らない兄である。

姉の語るところでは、峻厳な暗い山のようであった父に反抗して、いつも母を庇い続けていたらしい。

ある年のお盆のことだった。仏壇に両手をあわせていた母が、きっとなって振り返り、父に向かって、

「お父さんがその筋に頼んでくだされば、正雄さんも長崎に行かずにすみましたのに」

と怨じた。

結局、これが最初で最後の光景だった、母が父を非難するのをわたしが見たのは。わたしは、はっとして父を見た。籐椅子に座ったまま、父は黙っていた。

暗い顔で黙って窓外を見続けていた。兄の死が、父と母の間に深い溝を作ったのだ、とわたしは思っている。

3

わたしの大学合格通知が、京都の立命館大学から宮崎に着いたときだった。母は複雑な喜び方をした。ほっとしたような、腹のそこからの喜色が顔に過ぎった。しかしそれは一瞬のことで、表情は厳しいものに変わった。

話題がすぐに京都の下宿のことに移った。我が家には京都に何のつてもなかった。どうやって探したらいいのか。大学の紹介頼みだった。そのとき、突然、母が八畳の間に大の字にうつぶせになって大声で泣き始めたのだ。

「正俊がせっかく大学に通ったのに、住むところがない」

母はそういって、ヒステリックに泣き続けた。それは生涯忘れられぬ光景だった。そのように取り乱した母をわたしは見たことがなかった。

母はなぜ泣いたのだろう。

実に長い間、母の号泣は、下宿先のないわたしを不憫に思ってのことだった、とわたしは思っていた。ただ、その解釈にいつもそぐわないものを感じ続けてはいたが。

それが間違いだとわかったのは、わたしが63歳にもなってからだった。

わたしの、可愛がっていた子供が他府県の大学受験を決めたとき、わたしは真夜中になって、ふいに起きあがるほどの喪失感に襲われ始めた。もしかすると、子供は他府県でそのまま就職するかもしれない。

寂しさが、もうどうしようもない寂しさが、がっちりとわたしを捉えた。

そして40数年前に母がなぜ泣いたかがわかった。

母は、下宿先のあてのないわたしを不憫に思って泣いたのではなかった。別れが寂しくて、そしてその別れが、4年間ばかりか、永劫につながるかもしれない、暗い予感に泣いたのだ。

わたしは起きあがり、ぽろぽろと流れてきた涙を拭った。

わたしが大学に入ると同時に郷里を離れてからも、休暇ごとに宮崎に帰って、親孝行の真似事をしてきた。掃除、洗濯、庭の手入れ。

料理はできないので、どこかに食べに連れ出そうとするのだが、昔の人で、なかなか応じてくれない。作った方が安いというのだ。それで、母の好きな刺身を自転車で買いに出掛け、保存容器に入れてもらって帰ったこともある。

そんなわたしを見て、郷里の姉は、和知川原(地名)の孝行息子、とわたしを揶揄していた。

結婚してからも、機会を見つけては帰るようにしていた。

宮崎はわたしの心のまほろばである。

その光の放埒、その風の放逸、空と海の跋扈、季節の熱狂的な直撃……青島、日南海岸、えびの高原、大淀川、一つ葉……。 思い出のなかでは夏が中心に陣取っている。灼熱の日盛りにシュロの風吹く街。

独身時代、そして結婚してからも、わたしは郷里に帰ると、部屋の窓を開け放って、庭の樹木のかしましい蝉の声を聞きながら昼寝をしたものだった。

父が定年退職してから建てた郷里の家は、敷地が200坪もあった。後に県道の拡張工事に伴って50坪ほどとられたが、それでも庭には栴檀や杉、それに日向夏みかんやイチジク、柿やキンカン、それにザクロなどが植えてあった。

何かの物音に目を覚ますと、近所の可愛い侵入者の、麦藁帽をかぶったのが、こちらには脇目もふらずに獲物を狙って庭の木に登っていたりした。

父が亡くなり、残った母を姉夫婦がみるようになってから、ひとつは安心したこともあって、わたしはあまり郷里に帰らなくなった。

父が亡くなった後、母は郷里で遺産相続にまつわる冷たい暗闘に巻き込まれ始めた。

郷里はわたしの帰郷を巧妙に拒むようになった。

夏にわたしが郷里に帰る。兄たちは今年のお盆は帰らないということなので、お盆過ぎに神戸に戻る。すると、それを待っていたかのように、二人の兄が宮崎に入り、郷里の姉夫婦と、和知川原の家と土地について相談するといったことが重なりだした。

わたしは変だと思いながら、別の事情が出てきて、帰れないようになっていた。側にいて母を守ることができなかったのである。わたしの悔いはここにある。

母が亡くなった後、宮崎に戻る。汽車が宮崎駅に近付くと、わたしは落ち着きをなくすのだ。

立ち上がって窓外を見やる。美しく広々とした田園が広がり、懐かしいはずのあの山、この家並み、この茂み、看板のあの広告、と追いながら、ほんとうは何も視野に入れていない。

許しちくんない……。

何かから逃げるようにホームに降り立つと、ふいにわたしは強い秋の気配に包まれる。見上げると、夏の空が広がっている。あるいは前方に冬の山が聳えていたりする。

同じ山、同じビル、同じ道路、同じシュロの木が見えるのに、母が生きていたときの季節感がないのである。

あれだけ傍若無人に振る舞っていた入道雲は陣形を解き、非情なまでの日差しにも戦意が感じられなくなってしまった。

コロコロと小さな木の葉を転がしていた冬の風。春の、大淀川の土手のつくし。それらがすべて秋色に染まり、静まりかえっている。

母とともに宮崎の夏も春も、冬さえも逝ってしまったのだ。

残ったのは秋の気配である。

郷里の親族への挨拶、墓参り、と型どおりのことをすませて、宮崎駅に着く。可愛い子供には旅をさせるな、だな、と呟く。側に居さえしたら……。

列車が動き出し、宮崎の懐かしい光景が視界を流れ始める。

大分に入り、別府を過ぎ、小倉に着く。

いつものでんで、ここで昼食を認める。ややあって、ホームにあがり、列車は関門海峡を越える。下関に着いた。

まだ秋だった。

そういうことか、と呟く。

母さん、もうわかったよ。わたしが母と同じこの秋の経帷子をまとって生きれば、母は慰められるのだ。いや、わたしはそうしなければならないのだ。それはわかったが、それ以後、郷里になかなか帰れなくなった。

宮崎に帰れば、秋いろに染められて、春も夏も、冬さえも死ぬ。それらの季節にまつわる思い出が変わる。娘たちは墓参りに帰ろう、とたまさかいってくれるのに、下手ないいわけをしながら、もう何年もたつ。

<完>

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