(風化しつつある阪神・淡路大震災に抗して、『みず』と題して、個人的な体験を発信する)

『みず』

 

2 過ぎ去った日々

京都八坂神社の境内で、その40代の女易者は木陰に粗末な机を置き、足を止めるお客もなかったことから、手持ちぶさたそうだった。

不思議な雰囲気がその易者のまわりを囲んでいた。あたりは静かで、易者の姿は、何かこう、澄明な空気でくり抜いたように鮮明である。

その前を10メートルほど行き過ぎてから、学生のわたしは引き返し、生まれて初めて手相を見てもらうために左手をだした。

わたしが易を信じていたかというと、そうではなかった。

引き返したのは、大学時代にわたしがもっとも深く読んでいたニーチェの哲学書が易者の机に置かれていたためだった。易とニーチェ。この奇妙な取り合わせに、その易者に強い関心を惹かれたのである。

『しかし、たかが易だ。どうせいい加減なことをいうにちがいない。高い金を払うのだから、ここはひとつこちらから質問してみよう』

「あの訊いていいですか。ぼくはこのまま京都で就職しますか」

やや考え込んでから女易者は静かにいった。

「いいえ、あなたはこれから東京に行かれます」

最初の一言でわたしの易者にたいする態度は一変した。易者のことばが、ゆるがせに出来ない、特別な意味をもっていたからだ。なぜならそのときわたしは東京の教員採用試験を受けていたのである。

『これはおれが採用試験に受かるという意味だ。もし易が当たるとしての話だが。しかしおれが東京に行くということは今付き合っている彼女との関係が終わるということなのだろうか』

それでわたしは訊いた。

「今、付きあっている人とは結婚できますか」

付き合っているといっても、喫茶店でよくふたりでコーヒーを飲むといった他愛ないものだった。しかしその喫茶店のコーヒーは、時間を忘却させ、わたしのなかの文学的なものを次々と引き出してくれる、不思議なコーヒーだったのである。その人と一緒にいると、ただ一緒にいて話しているだけで、自分の良さが、自分のもっとも深いところが、次々と引き出されるのがわかった。

「いいえ、しかしこれはあくまで易で、あたらないこともありますから」その易者らしからぬ気遣いがわたしにはこたえた。「あなたはいずれ関西に戻ってこられますよ」

「戻ってくるということは、今付き合っている人と、よりが戻るということですか」

わたしは勢い込んでいった。この女性がいっているのは易というより未来透視術のようなものかもしれない、と思いながら。

「いいえ、あなたは東京ではなく、関西に戻ってから結婚されますが、それは違った女性との結婚です。また関西に戻ってきてから、あなたには大きな厄災が待ちかまえているように出ています」

わたしは全部で7つのことを訊き、下宿に帰って、ノートにわたしの質問と易者の答えを書き留めた。いっぷう変わった易者だった、とひとりごちた。

いつものようにワーグナーの「神々の黄昏」をかける。横になってニーチェの本を開いた。

「なんじが深淵に見入るとき、深淵もまたなんじに見入る……見よ、この杯は空しからんことを欲し、ツァラトウストラは再び人間たらんことを欲す……」

やがて東京から採用通知がきて、わたしの教員生活は東京から始まった。

特別に東京の教員になりたかったわけではなかったが、たまたま最初に受けた試験が東京で、そこから最初に採用通知がきたことから、東京に行ったのである。その人のことを思わぬ日は、1日たりともなかったのに、心の中で、縺れにもつれた糸は、若いわたしの力では解きほぐせないものになっていた。

そのときのわたしがいかに青臭かったかは、作品を書いて、早く印税で食べられるようにして、それから彼女に結婚を申し込もうと決意していたのである。今ならわかる、そんなことはどうでもいいことで、まず一緒になって、それから書いていけばよかったのだったが、そしてそのことが決定的に重要だったのだが、それがわたしにはできなかったのである。

彼女には、それを促すことばを幾度もかけてもらいながら、彼女に手をさしのべることができず、結局、永久に彼女を見失うことになった。

71年。すでに全国全共闘の結成をもって全共闘運動は終わってしまっていた。青空はのけぞって倒れ、春はゲラゲラと笑いながら一気に坂道を転がり始めた。その時代の空気も、わたしの虚無的な東京行きを後押しした。
<続く>

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